「知られざる魯山人」(山田 和著、文春文庫)を読んでいますと、第3章 食客のところで、祖父 下郷 傳平が「放談」というタイトルで魯山人のことを書いているところを見つけました。
北大路魯山人の長浜および祖父とのつながりも下記のように記されていました。
内貴からのこのような料理伝授の消息については、星岡茶寮の会員で「洞天會の會員だった長浜の数寄者、近江製糸社長、長浜町々長兼長浜銀行頭取の下郷傳平(二代目)がつぎのように伝えている。
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「私はいつか北大路君に素人がどうして料理を始める様になったかその動機をたづねた事があった。京都に北大路君がまだぶらぶらくしてゐた頃同じ趣味家の交り深かった人に京都の名門家内貴清兵衛氏があった。氏は京都の郊外松ケ崎に別邸を持って居た。氏は不自由なこの郊外に居って自分で手料理をして北大路君に食事を取らせた。そしたら北大路君は大愛美味しいが誰が作ったのだと尋ねて見ると内貴さんは俺だと答へてゐた。
内貴さんさへやれば之だけのものが出来ると思って、北大路君の料理道楽は自分でやってのける事になった。その後北大路君は茶寮の経営が都合よく行くと支那を旅行して来た。やはり料理研究の目的で� �った。日本料理に少し脂肪を加へればもう完全な支那料理で研究の必要はないとの事であった。元々あの人も器用人ではあるし味はいいし追手に帆を上げてうまく美食界の押しも押されもせぬ第一人者となった」(『星岡』第三十二号 4「放談」昭和八年七月。「知られざる魯山人」第3章 食客 229頁による) 注:内貴とは京都の名門で美術に詳しい内貴清兵衛、魯山人の料理の指南役とされる人。
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北大路魯山人(福田房次郎)を贔屓した人
「知られざる魯山人」(第3章 食客 266頁)には次のように述べられていました。
"さて、応対がふてぶてしく世間を意に介さない態度の房次郎を好いていたのは燕台だけではなかった。東京の藤井利八も、長浜の河路も柴田、下郷(傳平)も、あるいは安藤(輿惣次郎)も木之本の冨田(冨田八郎忠明。冨田酒造十二代目)も、京都の内貴も南莞爾も、鯖江の卜了軒も高田篤輔も彼を愛し、粗野とも思えるその態度にむしろ青年の清々しさを感じていた。 その結果、彼らは房次郎にさまざまな機会を与え、それをつうじて数寄者同士親睦を深めてもいたのである。"
*細野燕台=金沢の人、漢学者で煎茶道も極めた骨董商。無名時代の北大路魯山人に味覚と陶芸について教えた。
北大路魯山人と長浜
北大路魯山人(福田房次郎、大観)は"大正2年から5年にかけて長浜や京都、北陸の素封家に食客として暮らし、美術骨董品に対する鑑識眼や、四季折々に口にする美食への見識を深めます。"これがのちの「星岡茶寮」につながるといいます。
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竹内栖鳳と長浜市室町の柴田源七家で出会い、彫った款印を認められたから美術界に名を知られるようになったということです。
長浜へのきっかけは松山堂(美術商)の藤井利八を通じて長浜の河路豊吉を識ります。河路豊吉は長浜の文具商と紙問屋、長浜町会議員でした。「関西きっての古美術に対する目ききとしても中々定評のあった人物であった。豪壮な大名気風を好み、有名な文人、画家、墨客を次々と長浜に招き寄せて釆ては自宅に逗留させ、彼等の頒布会を主催して近郷の同好者達にその作品を周旋していた。」(「知られざる魯山人」第3章 食客 194頁)
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吉田(耕三、美術評論家)は房次郎の最初の支持者となった支持者たちの名を記しつつ、こう書いている。
「はたせるかな若年に似合わぬ福田大観の個性的な書体と刀の冴えた蒙刻は、長浜及び近郷の美術愛好者達の間に相当のブームを引き起し、近江豪商の中から多くのフアンを造ることに成功した。それ等のフアンの主な人では、北海道で農場経営に成功していた河路重平(長浜在住)、近江銀行頭取と仁寿生命の社長を兼ねていた下郷伝兵衛(長浜在住。*傳平の誤り)、福岡(注・福島の誤り)で呉服商として成功していた安藤順造(長浜在住。注 先代の安藤輿惣次郎の誤り。家は河路家の斜向い)、長浜の二十一国立銀行頭取であり、京・京都に縮緬・ビロー� ��の商店を経営していた柴田源七(室在住)、同じく二十一国立銀行重役で後に江北銀行頭取になつた中村寅吉(室在住)などがいた。これ等の人々は所謂近江商人中のそうそうたる宗衆であり、夫々皆自ら文人をもって認じ、俳諧、書画など一応はものすると云った風流人達の集りででもあったのだ」(北大路魯山人伝、陶説 94号 掲載、吉田耕三 著。「知られざる魯山人」第3章 食客 196頁〜197頁による)
長浜の数寄者たち
吉田がそうそうたる旦那衆と書いたのは、室町時代以降、東海北陸地方と京都との接点にあったこの地が、秀吉の築城とともに長浜と名を改められ、町屋敷三百石の年貢免除という朱印地の指定を受けて大いに発展し、伊勢商人とともに世に冠たる近江商人を生んだこと、そしてその歴史的文化的末裔たちが房次郎の後援者になったという意味である。
近江商人は吝嗇で知られてはいるが、京文化にも加賀文化にもつうじ、風雅を愛する教養文化人が多く、彼らはもともと出稼ぎ商人ということもあって、京都や東京や大阪など全国に幅広く交友関係を持っていた。房次郎がデビューするに最も適切な人々が集まった場だったわけである。� ��「知られざる魯山人」第3章 食客 197頁)
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魯山人は安藤家の離れの書院「小蘭亭」に襖絵や天井画を描いていたので、かって公開されているときに見てきました。この存在は長い間知りませんでした。
祖父の放談も初めて読みましたが、私には本の題名通りの「知られざる魯山人」でした。
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